ホロスコープの中の自分





前回の「冥王星のお話」で
太陽系の中心から外側にいくにつれ
個人〜社会と広げて考える、という占星術的考え方は面白いな、
その中で一番外側(とされる)冥王星とは何を表しているのかな、
というお話をしたのだけど

それでは逆に一番中心とはどこかな、
それは「自分自身」を表しているのかな?それとも?
という考えも、きっと同時に生まれる。

科学的には、太陽系の中心は当たり前だけど太陽である。
太陽が「自分らしさ」「人生の目的」「自己表現」を表すのは
直感的にわかる。

だけど、ホロスコープ上での中心は
太陽ではなく「地球」だと思う。
図の中心の丸は地球を表している。
あなたからみて、宇宙はこう見えますね、という図だからだ。

このことに「まだ天動説なのか」という
占星術に対する批判があるらしいけど、私はそうは思わない。
占星術は「ある一人からみて世界がどう見えるか」ということ、
一つの存在(意識)と、この世界との関わり方を表しているのだと思う。
そうすると、客観的な世界の中心がどこか(太陽を中心に回っている)
とかは関係なく
「今、ここ、私」と「それ以外」の関係
つまり「地球」と「他の感受点との角度、距離」の関係が
照合されることに不思議はないなと思っている。

さて、そうすると
ホロスコープを読むときにはこの外側の部分(宇宙)ばかりを
さまざまに読んでいるのだけど
(そのためのものなので当たり前!なのだけど)
ときどきふと
私の中心や本質はこの図の真ん中の「地球」なのではないか?
と立ち止まることがある。
このいつも揺らがない、誰でも同じな、ただの丸が
「意識」の本質で
行動や、感情や、思考や、運命でさえも
ただこの人生ではそう表れるよ、というだけのものなのかも。

例えば、占星術上では
「与えられたのに自分で使わないと、外からやってくる」
という言われ方をよくする。
ホロスコープで表しているものを仮に「自分の性質=持ち物」だとすると
「行動しない、使わない→何も起きない」で済みそうだけど
そうでなく
「行動しない、使わない→外から出来事がやってきて、結果やらされる」。
この感覚を最初は「?」と思っていたのだけど
ホロスコープで表しているものは「世界との関わり方」であり
あなたはこういうフィルターで世界を認識し、行動し
こういう風に感じる傾向がありますよ、ということで
自分と他者や出来事の区別はそこには本当はない、
漠然と「世界観」というものが在るだけなのでは?と思うと
なんとなく納得したから。

あなたの見ている色が、私の見ている色と
本当に「同じ」かはわからないように
それぞれ色々なフィルターを生まれ持っているという意味では
全員違う世界を持っているとも言えるし
逆にそのフィルターを外してしまえば
全員同じ意識、だったりして…??
これはあくまで思考遊びなのだけど。

では「意識」とはなんだろう。人生の傍観者なのか。
今ここ(地球)にいる「私」とは、その核とはなんなのだろう?
なんで在るのだろう?
と、ときどき考えてみる。




そうだ。
「今、ここ、この星の上で」を忘れないように
星座のオーナメントにも必ず「植物」を描いたのだった。
カードの解説書にも「植物」の項目を書いた。
カード裏も「地球」的に。

植物は「今、ここ、この星」の象徴でもあると思うから。

空と大地の間で
少し心もとない私という存在。
気持ちはすぐにあちこちに飛んでゆくから
「ここ」に戻ってくるために、花を愛で森を歩く。



































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